介助する側・される側

いつまでもあってはイケナイ健常者と障害者の壁。こう呼ぶこと事態がバリアがある様思える。
とあるとき、GEN☆ぱらの掲示板で、こんなやり取りがあったので、まとめようと思う。
平行線だったけど、いいことだと思う。意見がある人はメールください。
追加していきたいと、思っています。

悠々
実のところは俺っちはホームヘルパー2級の資格をもってるんだ。
だから、みわちゃんには必要な部分は介助したつもりだよ。
みんながわんさかいて、机や椅子やある中、誘導したり、
何があるから何が欲しい?なんて聞いたりしてね。
みわちゃんは、結構わがままで「あれはいらない、これはいる!」みたいに
いってたけどね。
そうか・・・あゆちゃんまでは気がつかなかったよ。
気がついたらBBQも楽しませてあげられたのかもしれないのにね!って
身体は一つなので無理か!
みわちゃんが時々見せる笑顔もすてきだったな!
結構、逆に気を使われてる気もしたけどね。
あゆ
今日の日記にも、ちょっと書いたんだけど、
自立って言う言葉を、自分の観念で押し付けてしまうと、
相手が正反対をもっていたときに、ひずみが出来るのよね。
だからコミュニケーションって大切。
道をあるいてて障害者見つけたら、急になにかするんでなく、
「何かお手伝いが必要ですか?」と、尋ねること。
周りから見て危なっかしくても、本人がやり遂げれば自信のつくことと、
やっぱり出来なくて困ってることの、2通りあるから。
最近あゆは、講習に行くとそのことも言うようになりました。
でもあゆは平気。
ああやって分かってない対応をして、天狗になってるのは、
そのうち鼻をヘシ折られるからね。
みわちゃんも楽しかったみたいだし、みんなが楽しかったら、
あゆのちょっとのいやなことは、大丈夫なのさ♪
悠々
いろんな場面でそれはあると思うけど・・・
自分が本当に困ってるとき、少し(何かの)の助けで救われるとき。
それを助ける(受ける)側で判断するのも難しいですね。
ヘルパー的な介助をするときは、できる限り「どうして欲しいの?」ってことを
聞くように心がけてるつもりでも。
「余計なおせっかい」だったり、「気づけないこと」だったり。
介助する側もされる側も、やっぱりコミュニケーションって大事だと
俺も思います。
あゆ
自分が介助を受ける側になったら、と言うのが、
欠けてしまう人が多いんですよね。
"失う"ことが障害と感じる人。
"もともと無いもの"が障害と感じる人。
失うと思ってる人は、甘えさせて欲しいって、
どっかで思ってる人が多いように感じます。
そう思ってる『介助する側』も、中途半端に首を突っ込みます。
それがいまのうちの職員。
"もともと無いもの"って思ってる人にとっては、
自分の限界も十分に分かっていて、悟るものです。
ってことは『介助する側』の、中途半端な分かったような言葉は、
いやな気分へ導くだけです。
また、適度に意思伝達等できる人が、
自分から発すること、って言うのが、障害者の最大の課題であり、
コミュニケーションの勇気の1つです。
それを自然に誘導できるのが本当の『介助する側』でしょうね。
とは言うものの、あゆもまだまだです。
しかし介助『する、される』と思っている段階で、
それは健常者と障害者のバリア作りであり、差別だと想います。
あゆが先日会ってきたけんちゃんや、
常連さんのりぃくんやゆうちゃん、ちょこ*いちごちゃん、
同世代の人たちだけど、みんなあゆとそういう関係で接してるのでしょうか?
きっと『なんとなく』手伝ってくれてるでしょうし、
(たぶんそうだと思うけど、誰かココにレスしてくれー!)
あゆから発することが、あゆの経験値にもなります。
結局ナチュラルに接することが、一番の自立への近道で、
お互いに乗り越えるものなんだと思います。
さだぼん
今の日本の現状(若い人はだんだん変わってきてるようだけど)だと、
どうしても一般の人は障害者と接する機会が少ないので、
自然に付き合うのが苦手のようですね。
むやみに同情したり、好奇の目で見たりが多いようです。
どっちかと言うと年配の人に多いように感じます。
昔の人は隠すことが多かったから、
そんな感じになってきたのかもしれませんね。
障害を持っている人もどんどん外へ出ることが大事だと思います。
あゆちゃんみたいに、積極的に出れば、
周囲の人はきっと自然に接しているはずだと思いますよ。
できないことをお互い助け合うのは、障害を持っている、いないに関わらず、
当然のことやからね。
こんな事を感じるようになったのは、恥ずかしながら、
ウチがそういう状態になってからですけどね。
あゆ
そう、昔の人って隠したがるの。
もぉっ、あゆはメディアな女になりたいのにー!
アイドルになりたいんだからー!!(21歳じゃムリ?)
んでもね、じぃーってみられるのはいいことだと思ってます。
だって、きれいなお姉さんが歩いてたら、視線が行くでしょう?
イケメンが歩いてたら、
目で追っちゃうでしょ?←あゆだけっ?( ̄∇ ̄|||
そう言う見てもらえるきっかけがある、と、あゆは思っとります。
うーん、人生がすべてステージ!?
確かに目線がうざいときもあるけど、いいんじゃないかな。
そこからナチュラルな関係に、どこかでなれれば、
出来ないことを助け合うのだって、自然になるわけだから。
きっかけって言うのが、必要なんですよ。
さだぼんさんが、マリコさんとの関係が、今のようになったように…
まぁ
介助『する、される』と思っている段階で、
それは健常者と障害者のバリア作りであり、差別だと思います。
たとえば施設でのこんなこと。
介助「する」側は「される」側を、幼稚っぽく「ちゃん」付けで呼ぶ。
「される」側は「する」側を、丁寧に「さん」付けで呼んでいる。そこに「する」「される」の上下関係が生まれています。
介助「する」「される」に関係なく、目上の人には敬称を付けて呼ぶのが
ごく自然な姿になる日はいつ来るのやら。。。
あゆ
そうなのよねぇ。
まぁお姉ちゃんの書くようなこと、あるんだよね。
特に24時間に近い状態でいるような施設って。
まだ10代の子にたいして、親くらい年の離れた人が言うのは、
許せるんだけどね。
20歳も過ぎりゃあ、ちゃんづけはないっしょ。
しかも幼稚言葉なんて、ナメてんの!?と、言いたくなっちゃうもんです。
あゆだったら言っちゃうけど。(爆)
こっちがオトナっぽく振舞う、いつまでも抵抗する、しかないよね。
ももえ
介助『する、される』関係で・・、なんて意識した事なかったし、
元気なあゆちゃんのパワーもらったり、
かえって気を使ってもらって恐縮したり・・。
お互い出来ない事はカバーし合う、と言う感じだったんじゃない?
悠々
>"失う"ことが障害と感じる人。
>"もともと無いもの"が障害と感じる人。
イマイチ区別が分かりません。というのが正直な感想。
俺は、どちらとも分からないけど、自分が役に立てるのなら、
力を貸してあげたい(この表現も適切ではないか・・・)、という感じかなぁ。
>ってことは『介助する側』の、中途半端な分かったような言葉は、
>いやな気分へ導くだけです。
結構、それは悩みでもあります。
相手の気持ちは分かりたいですが、きっと俺には完全にわかるはずもない。
やっぱり、自分にできることをやるだけです。俺は。
>また、適度に意思伝達等できる人が、
>自分から発すること、って言うのが、障害者の最大の課題であり、
>コミュニケーションの勇気の1つです。
>それを自然に誘導できるのが本当の『介助する側』でしょうね。
やっぱり、それを(全ての人から・自然に)引き出すことは、難しいよ。
これは、別に普通のコミュニケーションでも同じなのではないかなぁって思います。
「分かって欲しい」と思う人「分かってあげたい」と思う人、
そういうものなのかなぁ・・・(中途半端な答でごめんなさい)。
>しかし介助『する、される』と思っている段階で、
>それは健常者と障害者のバリア作りであり、差別だと想います。
それを承知の上で・・・というか、書いている最中に気づいた
けど、差別している自分に気づきながらも・・・書きました
やっぱり、助けてやろうって気持ちはあるし。
でも、コミュニケーションに移った段階では、仲良くなりない!
的感情(友達になりたい気持ちに近い・・・)で接しています。
というか、誰であっても「仲良くなりたい」って思うことは、
自分にない何かしらの魅力を感じるからかなと思っています。
>みんなあゆとそういう関係で接してるのでしょうか?
あゆちゃんに魅力を感じているのは、あゆちゃんがあゆちゃんだから。
そういうことです。私は。だから、情報交換しています。
・・・相手が何かしら出来ないことがあって、その出来ないことを受け入れる。
受け入れることが出来たら、後はなにも変わらない。。。そういうことかな。
俺の気持ちは。
俺が入院中たくさんのいろんな病気の人と接しました。
でも、仲良くなった人達はみんな友達だし、大切な人です。
病気の人、そうじゃない人、関係はないです。
あゆ
たぶんね、悠々さんは意識が出来上がっちゃってるから、
いろいろ悩むと思うんだ。
ちょっと混乱させてしまったけど、
結局は障害者だろうと、健常者だろうと同じ人で、
相手を知りたいから近づき、嫌いな人っていうのだって、
出てくるもんなんですよ。
それがナチュラルな関係。
そこには『介助する、される』というのは存在しない。
仲良くなって、自分の出来ることはしてあげたい。
してあげたいは、好き(like)からくる感情。
本当の『介助する側』なんて、いないんですよ。
すべてのことが出来る人なんていないから。
難しいって思わないで。
人は支えあうから、人なんでしょう?
障害者ってなぁに?それがきっかけでもいいんです。
でも、次のステップアップは『障害者』っていう
『モノ』であってはイケナイのです。
バリアフリーって、たぶんそこなんだと思う。
『人』でなかったら、友達でもないし、好きも嫌いもないから。
障害を持ってる当事者って言うのは、タダできないことがある。
それを武器に、きっかけを作ろうと思えばいいんです。
持ってないと言われる人だって、どこかがいつか障害者。
失恋したら、支えて欲しくて、耐えられない事があるでしょう。
そのときの友達は、心の健常者じゃないですか。
(たとえが難しいかなぁ)
あゆはみんなと仲良くなりたいし、嫌いな人だってでてくる。
でもそれは、障害者って言われても、人なんだよーって、
そんな気持ちがあって、あゆを分かって欲しくて、
このページを作ってます。
だからいろんな気持ちを、なるべくストレートに出してる。
常連さんは、そんなあゆをlikeの気持ちいっぱいで、
(loveの人いたら、ラブレター待ってまぁす♪)
元気をもらいに来て、共感して、支えあって行きたいと思って、
来てくれていると信じています。